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チャン・オータのご紹介

現在、THE天国畑JAPON、マスター木村ONE PLUS ONEのドラマー。
その他様々なバンド、アーティストのサポートドラマーとしても活動。


1983年
日本の東京都小金井市桜町病院にて、3020gの元気な毛むくじゃらな男の子で産まれる。

1986年
宮地楽器のヤマハ3歳児ランドに通う。その後名古屋に引っ越してもヤマハの幼児科、ジュニア科に通うことになり、音楽的基礎を身に着けたのはこの頃。ピアノを始めたのもこの頃。

1987年
小金井聖霊幼稚園入園。
毎朝母に「泣いて喚いてすがりつく嗚呼およしなさいな」状態で登園する甘ったれだったが、登園後は朝のことが無かったかのように友人と過ごすという生活スタイルを確立。

1988年
父の転勤の関係で名古屋市は天白区八事へお引越し。八事聖霊幼稚園へ。
習い事も一緒、幼稚園も一緒の僕を含む3人組で、バレンタインデー辺りで遊んでいたところ、その一人の女の子から「としくん(僕)はここで待ってて」と言われ、二人は別部屋へ。どうやら女の子ともう一人の男の子がチョコレートのやりとりをしていたが、男の子は受け取らず戻ってくる。その後女の子は包装紙にえんぴつで書いた男の子宛の手紙文章を消しゴムで消し、「じゃあとしくんにあげる」と、消しゴムのカスの残る包装紙で包まれたチョコレートを受け取る。その時のチョコレートが『ロッテCRUNKY』。どんな状況下であろうとチョコには目がないため、その場で包みを開けて食べて「このチョコうまっ!」と驚く。あの頃も今も変わらない美味しさ、今日におけるロングセラーも頷けるというもの。

1989年 小1
名古屋市立表山小学校入学。

異常な偏食家だったため、通い始めは給食が憂鬱な日々。登校時、「給食を食わなきゃいけない学校になど行けるか!」とばかりにマンションの3階から外にランドセルを放り投げるという抵抗を見せるが、隣に住む優しい4コ上のお姉さんと1コ上のお兄さんに諭され連れられ何とか登校する日々。
ただし、その給食のおかげで、割となんでも食べられるようになったのもこの頃。
ちなみに、隣に住むそのお兄さんとその仲間たちと共に、ドッジボール漬けになったのもこの頃。
駐車場でドッジボールをしていたため、しょっちゅうボールが駐車中の住民の車に当たり、迷惑をかける。

1990年 小2
たまの『さよなら人類』を聞いて、初めてCDを買ってほしいと親にねだる。
ウッチャンナンチャンの『やるならやらねば』でCHAGE&ASKAのパロディーコントをきっかけに、CHAGE&ASKAにハマる。
隣のお兄さんともCHAGE&ASKAを一緒に歌う日々。

1991年 小3
X(X JAPAN)をTVで観て以来ドラム(YOSHIKI)とヴォーカル(TOSHI)にくぎ付け。
ちょうどその頃、妹の幼稚園の同級生と組んでいたママさんバンドのつながりで、キーボード担当の筈の母親がスネアドラムを一日だけ自宅に持ち帰る。
そこで”ちょっと”叩いてみたら「ドラムってでら面白ぇ」と思うようになる。

1992年 小4
3月、お世話になりまくっていた隣のお兄さんお姉さん一家の引っ越しが決まり、落胆。
小学4年生になると同時にドラムを始める。
ヤマハのジュニアドラム教室に通い始める。
隣のお姉さんお兄さんが引っ越してしまったこともあり、学校から帰宅後は、すぐに家の練習用のサイレントドラムをとにかくぶっ叩くという日々が続く。下の階にお住まいのNさんに迷惑をかける(…が、Nさんがとても良い方だったので、好き放題やる毎日だった)
ドラムのテキストを先の先までどんどん予習し、当時の講師から「こんな真面目な生徒いないよ」と言われる。
​ちなみに小4の終わりごろ、ピアノの発表会で出演していた同い年の子に、人生で唯一の一目惚れをするが、結局その後会うことなく現在に至る。

1993年 小5
大好きだった名古屋から、東京都小金井市へ戻る。小金井第二小学校に転校。
(戻ったと同時に、名古屋に行く前にバレンタインのチョコをくれた同じ幼稚園出身の子が同じ小学校にいることを知り、勝手に運命を感じ約2年間の片想いし、友人の協力もあり交換日記をするまで漕ぎつけるが、卒業式前日に文面にてしっかり振られる。この時のことがあり、「運命など存在せぬ」と独りよがり気味に悟る)
同じCHAGE&ASKA好きの歌ウマなクラスメイトの三好と共に、部屋でCHAGE&ASKAを聞いて大声で歌ってはマリオカートをする日々が続く。この時にハモることの楽しさを知る。
宮地楽器のRCCドラム教室に通い始める。小出じろう氏(故人)に師事。

1994年 小6
ドラマーとして人生初ライブ(宮地楽器の発表会)
曲はブルーハーツの『終わらない歌』
リハの時に当時の発表会のメンバーから「パワーがもう大人だね」とおだてられ調子に乗った結果、本番になって前半に飛ばしすぎて、後半に右手が失速して迷惑をかける体たらく。ただこの時のライブをきっかけに、「ライブって楽しすぎる。ピアノの発表会と全然違う!」と思う。ちなみにライブ後、メンバーのギター担当のお兄さん(高校生)から「なんかお菓子買ってあげるよ」と言われたので、遠慮して何故かKISSMINTのガムを選ぶ。
その後この年のうちに、DEEP PURPLEのIan PaiceとLED ZEPPELINのJohn Bonham、あと初めて日本武道館にBilly Joelを見に行った時のドラマーLiberty Devittoに衝撃を受ける。(そこで「ワンバスプロドラマーに俺はなる」と言ったかどうかは定かではないが、現在もワンバス派…というかツーバス敬遠気味)

1995年
小金井第一中学校入学。吹奏楽部に入部。(バスケ部に入ろうとして女の子にモテようと思ったが、嫌いな先輩がいたため断念。)
ここで敢えて、今まで経験したことのない楽器、トランペットを選択。
井上陽水のモノマネをしながら先輩に笑ってもらう楽しい部活生活。
中1の頃にアンサンブルコンテストで金管三重奏で出場し、
金賞を獲得して、俺トランペットの才能あるかもと少し勘違いするが、
中2になって、あれは先輩ともう一人の功績であったことを知る。
ただ、この時にトランペットをやったおかげで、腹式呼吸を会得。
​合唱コンクールでは、3年連続でピアノ伴奏。

1998年
都立国分寺高校へ入学。軽音部に…と思ったが、思ったより活動が少なそうだったので、ハンドボール部に入部。(かっこいい先輩がたくさんいるハンド部に入ったら、ついでにおこぼれで自分もモテると思ったが、大きな間違いだったことに気づくのは約2年後)
ハンドボールのセンスはゼロだったが、
真面目に鍛えたためカラダだけは割と強靭になる。
同時期に、高校時代の友人の友人たちのバンドにドラマーとして加入。この時にSCARECROWの片山君と出会う。

1999年
SCARECROWの大賀君と出会う。ガスト(現しゃぶ葉)で会う。
とにかく眉毛が印象的だな、あとめっちゃタバコ吸うなぁ、と内心思いながら話をする。
その後、当時eastern youthのコピーなどをしていたSCARECROWのサポートドラマーとして吉祥寺WARPでライブ。

2000年
高校生活が楽し過ぎて、勉強を全くしなくなったため、レポート提出なども真面目にしなくなり、留年が危ぶまれたが、何とか無事卒業。

2001年以降
SCARECROWに正式加入。成蹊大学にも入学したが、
ドラマーとして、ひたすらライブを行う。
武蔵境STATTOにとにかく入り浸り、
先輩バンドマンたちと飲んだり飛んだり跳ねたりする日々。
そのため、大学生が妙に子供に思えてしまい、
サークルにも所属することなく、数人しか友達を作れず。
​せっかくの大学生活に少しの後悔を残す。
傍ら、数年後に武蔵境STATTOで高校のハンド部の先輩マリコさんと再会し、ギターのケンジさんと共に、一本刃というバンドも始める。

2012年
​3月、SCARECROW解散。それ以降、計7バンドをかけ持つ。

2013年
THE 天国畑 JAPONに加入し現在に至る。
活動範囲が一気に広がり、日本全国のみならず、
​何年後かにはアジア諸国でもライブをするようになる。
それとほぼ同時に、それまで趣味程度にライブをしていた、ものまねミュージシャンとしても活動も本格活動開始。

2015年
​新宿のものまねショーレストランそっくり館キサラのオーディションに受かってからは、キサラをはじめ、ものまねのショーパブにも出演するようになる。

2016年
小金井に戻る。結婚。
4人の子持ちだった現妻とは妙にウマが合い、
当然のように結婚に至る。
ただ、1人暮らしが急に6人暮らしに。
『ダブル川の字』になって寝ることになったため、
最初の3日間は、誰かが寝返りを打つたびに
「バッ」と目が覚める​寝不足の日々がしばらく続く。
この年のヒガコサマーフェスティバルに
『Brand New Feather with チャン・オータ』名義で出演した際、
マスター木村バンドで別に出演していたマスター木村と出会う。
​以降、小金井での活動が活発になる。

2017年

5人目誕生。7人家族になる。
名前を考える際、4人の兄姉たちが、
「あたしたちが名前を付ける」
とか言い出したので、
「ならぬ!子供に名前を付けるのは親の特権なり!」
と軽く揉める。
結局、無事(?)妻と共に決めた名になる。
 
2018年
友人に勧められ、その友人のお母さまのコネでドラム講師としての活動も開始。
ただ、コネで入っただけあって、指導方法が全く板につかず彷徨。
夏場で暑かったが、冷や汗も同時に出て、汗っかきに拍車がかかる。
そんな冬の折、ヤマハのドラム講師の募集を見る。


2019年
​ヤマハのオーディションを受ける受かる。恐らく↑の友人のお母さまの推薦状が効いたか。YAMAHAミュージックスクール認定ドラム講師になり、各地で講師活動開始。
10月にバンドツアーで中国の北京、武漢、上海でステージ。…この時期に武漢。今考えると色々少し責任を感じるようなそうでもないような。ただ、武漢の人たちはとっても優しく穏やかで、とてもいい思い出の一つとなる。

2020年
コロナ禍。一時期仕事がゼロになり、あらゆる給付金を得て、主夫になる。
この頃から、自宅で多重録画のYouTube動画をちょこちょこ配信するようになる。

2022年
マスター木村ONE PLUS ONE結成。

2023年
まさかの祖父になる。8人家族になる。

202X年現在
様々な50~70年代のレジェンドドラマー達に変わらぬ憧れを抱く反面、現在では新旧どんな時代のどんな音楽もカジってみる雑食ドラマー。
「音楽ジャンルは美味いか不味い」
をモットーに、日本全国及び台湾、中国、香港、韓国などのアジア諸国のライブハウス、クラブ、ホール、野外フェス、カフェ、バーなどにて精力的に活動中。
加えてドラム講師として、現在は小学1年生~80代の大先輩方の幅広い年齢層の70名前後の生徒へ、
ドラムの楽しさを伝えている。
一方、アコースティックギターとパーカッションを両手両足で駆使し、黒グラサンをつけたり外したりしてモノマネしながら歌う、ものまねミュージシャン。
幼少の頃より誰かの…または何かのモノマネをしていて、学校でもモノマネのおかげで人気者…とまではいかないが、好きな人には好かれる。
ある日武蔵境STATTOの店長(当時)まんぶさんより、「オータちゃんギター弾けるよね?歌えるよね?」と言われ、それまでドラマーとしてしか立って(座って)いなかったSTATTOのステージにて初ギター弾き語りを経験。
ただ、その時にモノマネ無しで人の曲を歌うことに照れくささを覚え、半分ふざけてモノマネで唄うコーナーを設ける。
ある日、声を嗄らしたまま弾き語りをする羽目になり、半ばやけくそで全編長渕剛のモノマネで激唱。意外にウケる。
その時、当時のバンドメンバーの大賀(SCARECROW)から、「長渕剛だけじゃなくて、いろんな人のモノマネができるんだから、それでやった方がいいよ」とアドバイスを受け、全編モノマネにすることになり、現在の弾き語りモノマネスタイルになる。
「命あってのモノダネ。笑いあってのモノマネ」
をモットーに、これまた国内外ライブハウス、クラブ、カフェ、野外フェス、ディナーショー会場や結婚式披露宴会場などのイベント会場、新宿そっくり館キサラなどのモノマネショーレストランにて精力的に活動中。
※レパートリー : ToshI(X JAPAN)・井上陽水・美輪明宏などの"著名人"のマネ/日本人・中国人・韓国人・フランス人・イタリア人の"誰か"のマネ)

ちなみに、日本全国野外フェスなどでは、司会としてもたまに活動。 モノマネをまじえながら司会をするが、実際は周りの優しさに助けられていることが多く、純粋なる司会者としての能力にはいささか疑問が残る。

とにかくその活動は多岐にわたる。
多岐にわたるが故にたまに 「チャンは何になりたいの?」 と聞かれている。

Copyright © 2015 Chang Ohta

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